灰人の生い立ち

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まずは、当ブログにお越しくださりありがとうございます。

名前は灰人(ハイド)と読みます。

発達障害グレーゾーンの男(30代)でございます。

この記事では私のちょっと普通ではない生い立ちをざっくりと書いていこうと思います。

幼少期

幼少期の頃の私は、普通の子に比べて落ち着きがなく、

学校の通知表には必ず、注意散漫と書かれていました。

小学低学年の頃から塾に通わせてもらってたものの、

頭が悪く、良い成績を残した覚えがありません。

両親は非常に厳しく私をしつけましたが、功を奏することなく、毎日のように同じようなことで𠮟られていた覚えがあります。

母親には毒突かれ、父親には鉄拳制裁の毎日でした。

私が幼少期のころは1990年代。

当時の発達障害の子供といえば自閉症や意思疎通がままならない子のことを言い、

ADHDなんて言葉は誰も知りませんでした。

なので厳しく子を育て、努力をさせればいつか必ず成長するだろうと世の親たちは思いこんでいました。

厳しすぎる家庭に育った私は、

学校では問題ばかり起こし、母親が呼び出され、家に帰ってからは父親にフルボッコにされる。

これが幼少期の頃のルーティンでしたw

自分の部屋の片づけができず、というか整理整頓ができず、学校の机の中はいつもグチャグチャ、

集中力がなく、授業中に大騒ぎ、廊下に立たされたら廊下で大暴れ、

思い出せることは恥ずかしいことばかりですw

灰人っていつまでたってもおこちゃまみたいだね、と気を寄せていた女子に言われたことがショックだったことを覚えていますw

10代

私が中学生に上がった時には両親が離婚し、母親のもとで暮らすことになります。

離婚間際の壮絶な夫婦喧嘩を見ていた私は、そのころから鬱っぽくなったと思います。

学校ではいじめの主犯格になり、その後、いじめを受けたりして中3の頃には不登校になっていました。

同級生には頭のオカシイやつ認定されており、女子には常に白い目で見られていました。

その後、定時制の高校に入学しましたがすぐに辞めましたw

社会人となった私は、とび職をやってみたり、コンビニの店員をやったり、パチンコの店員をやったりと、

全く長続きせず、職を転々としていました。

どの職種についても、学習能力の低さから成長が乏しく、

努力をしても報われず、

母のスネをかじっては、ダニ野郎と言われ

人生ってクソなことしかないなと思っており、

10代でこの世を去りたいと常に思っておりました。

が、周りにいた友人に恵まれていた事もあり、

人生って8割苦しいけど、たまには楽しいこともあるし寿命がくるまでなんとなく生きてみるか

的な精神で立ち直り10代は乗り切りました。

と、ここまでで

ほんとにざっくりと10代までの生い立ちでしたが、また気が向いたら詳細に、そして20代の出来事を書けたらと思います。

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